■「今日のことば」カレンダー 2016年10月■
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2016-10-28 |
99頭の牛を所有する男がいました。 インドの民話です。 彼は、あと1頭の牛を手に入れると切りのいい100頭になると考え わざとオンボロの服を着て、貧乏人になりすまして、遠くにいる 友人を訪ねて行きました。 友人はたった1頭の牛を持って、暮らしています。 「お前はいいなあ、俺は貧乏になったんだ。 子どもたちにたべさせることもできなくなった、助けてほしい」 彼は友人にそう訴えました。 もちろん嘘ですよ。 彼は99頭の牛を所有する大金持ちです。 「そうか、きみはそんなに困っているのか… ぼくであれば、この1頭の牛がなくなっても、 妻と力を合わせて働けばなんとかなる。 だからこの1頭の牛をきみに差し上げる。 この牛を連れて帰って、お子さんたちにミルクでも 飲ませてほしい」 貧しい男はそう言って、友人に1頭の牛を布施しました。 大金持ち1頭の牛を手に入れ、 「これで切りのいい100頭になった」 と、喜んで寝ます。 一方、貧しい男も、 「友人を助けることができた」 と思って、喜んで寝ました。 さて、どちらの喜びが本当の喜びでしょうか… 私が読んだインドの民話の本には、最後にそんな 疑問文がありました。 |
2016-10-27 |
年をとって、最近物忘れがひどくなったと思う方は 非常に多いのではないでしょうか? 「最近、めっきりものを憶えることができなくなった」 「子供は非常に記憶力がいい」 それは大いなる誤解です。 年のせいにして、ちょっとした努力を放棄しているのです。 たちが悪いのは、大多数の人がそのような意見を持っているので、 ひとりだけでは反対できないということです。 うまくいかないのは自分の努力不足ではなく他の 不可避的な要因にしたほうがいいと思っているのでしょう。 |
2016-10-26 |
信頼は、愛と同じく、匂いをかぐことも、 さわることも、味わうこともできませんが、 でも重大な力があります。 目には見えませんが、心にははっきり見えます。 信頼なしには、人間関係で成功することはできません。 あなたと他の人の間で信頼が強く育ち続けるよう、 持続的な努力をすることが大切です。 人間関係の中で信頼が損なわれていることに気づいたら、 できるだけすぐ修復にかかることです。 新しい傷に似て、壊れた信頼も、 すぐに適切な治療がなされなかったら、 感染し広がってしまいます。 とはいっても、 ちょうど折れた骨がその後もっと強くなるように、 信頼も適切に修復されれば前より強くなりうるのです。 |
2016-10-25 |
画家たちは、1枚の作品をインスピレーションだけで 仕上げるわけではない。 名画が生まれるには反復の努力も必要なのである。 例えば、強烈な色彩、激しいタッチで田舎の風景や人物を 描き出すフィンセント・ファン・ゴッホ。 彼の作品は、ほとばしるような感情を感じさせるが、 いつでも簡単にこのような作品を生み出していたわけではない。 彼は、題材のフィーリングをつかんだら、 いつも少なくとも3枚は描いた。3枚どころか何枚描いても 感情のこもった作品ができないこともあるが、最後になって これまでとは全然違う、いい作品が生まれることもある、 と彼はいっている。 また、アメリカ画壇で活躍した国吉康雄氏も、 何度も作品を描き直した。彼は、 「たやすく得られたものは信用できない」 と、最初に描いたものが、これしかない、と思えるできばえで あっても、わざと壊し、何度も何度も描き直した。 この作業の過程で、キャンバスに描かれた対象が凝縮され、 単純化されていき、ついに彼は、 「現実以上のなにものか」を手に入れたことを知るのだという。 |
2016-10-24 |
大抵の人が思い切った行動を起こせないのは、 その行動が引き起こす結果を恐れているからだ。 結果を恐れるあまり何一つ行動を起こせない場合すらある。 こういう場合、最大の問題は、実は結果そのものではなく、 「何が起きるかわからない」という不安に僕たちが 行動を左右されてしまうことである。 「どうにかなっても自分で何とかできる」 と構えていられれば実際なんとかなるものだが、 「自分の手には負えそうもない」 と思ったら実際にどうしようもなくなる場合が多い。 |
2016-10-21 |
「でも、それって、そう簡単にできるもんじゃないでしょう」 「でも、どうして私がしなくちゃいけないんですか」 と相手の言っていることに対して 「でも」という言葉から始めることが癖になっている人がいます。 「でも、私はこう思います」 と、「でも」を使う必要のない場合にも 「でも」を入れてしまう人もいます。 「でも」という言葉を頻繁に使う人は、 相手に対して根底に反対する意識を抱いています。 だから、相手がAと言えばBと言うし、Bと言えばAと言います。 自分が「でも」という言葉を使っていることにすら気づきません。 「でも」という言葉を頻繁に使う人はまた、 「相手の心を感じる」余裕がありません。 なぜなら、相手の言った言葉に対して 「どう反論するか」ということばかりに 無意識に考えながら身構えているからです。 そのために、相手と親しくなるための最も大切な要素である 「共感する気持ち」が育っていません。 仮に相手に共感したほうがいいと頭で理解していたとしても、 相手に「そうだね」などと共感する言葉を発すると、 相手につけ込まれるような感じがしたり、 相手に自分の城を明け渡すような気分に襲われたり、 負けた気分になるために、使うことができません。 こんなふうに、「でも」という言葉を頻繁に使う人は、 そもそも根本的なところで人と戦っているので、相手は、 絶えず不快な気分にさらされることになるでしょう。 |
2016-10-20 |
人生の終盤になってようやく、 「私は、自分の人生に満足しています。 過酷な人生でしたが、よくやった、よく耐えたと思います」 「歳をとって、ようやく、あなたの愛情がわかりました。 とんでもなく苦しく辛い人生でしたが、 愛されていたんだ、ってことが、いま、わかりました」 という生き方よりは、 「いま、あなたと一緒にいて、幸せです」 「いま、あなたとこうやって、話ができることが 楽しくてたまりません」 「いま、私がこうやって、自分の気持ちを表現できることが、 満足です」 「いま、こうやって、自分の意思を持てることに誇りを感じます」 「いま、私がこんな選択をしようと決められる自分が嬉しいのです」 というように、 その毎日、毎日、その一瞬、一瞬を、「幸せだ」と 感じる生活を送ることもできるのです。 「最後の幸せ」だけのために、わざわざ自分の ほとんどの生涯を、過酷な人生にしていくことはありません。 |
2016-10-19 |
書くこと、自分に問いかけること、よく考えること、 そして、自分をしっかりと見つけることによってしか、 心の平安や生きる喜びは得られないと 心に留めておくことが、私たちには必要です。 自分の可能性を活かす道を見つけることは、 自分にしかできません。 そのためには、じっくりと時間をかける必要があります。 その場しのぎの解決法に飛びつくと、 いずれも問題はもっと複雑になり、 解決がむずかしくなっていきます。 私たちがなぜ生きるのか、 この人生で背負っている宿命はなにか、 成熟するために立ち向かわなければならない試練はなにかを、 自分の代わりに教えてくれる人などいないのです。 背負わなくてもいいこともあります。 もっといきいきと身軽に生きるために、 優先順位を見なすことが大切です。 生きるということは、まさにそういうことではないでしょうか? |
2016-10-18 |
「絶対にしたくないことリストをつくる」 自分が好きではないものを知ることは、 自分を知ることでもあるのです。 たとえば、あなたの今年の誕生日、 二度としたくないことをリストにしてみましょう。 「二度としたくないことのリスト」は、簡単に作ることができます。 しかも、それは人生におけるあやゆる局面で効果を表します。 誰にでも、自分がどうしたいのかわからなくなる瞬間があります。 そうしたとき、人生において望まないことを書いておくことで、 はっきりと道が見えてきます。(略) 幸福という観点から考えると、したくないことをしないというのは、 したいことをするというのと同じくらい大切で、 したくないことをいくらかでも取り除くことは、 今以上の幸福へとつながるのです。 本来、私たちは、自分がしたくないことをよくわかっているはずです。 それでも、あえてリストに書き出すことで、したいこと、 したくないことが自分自身の選択である明確にすることができ、 今より自由な気持ちになれることでしょう。 (一部順番を変えています) |
2016-10-17 |
「とても自分が感謝している」 「いまの状態を嬉しいと思っている」 「楽しんでいる」 というプラスのメッセージをどんどん発信しましょう。 その上で、 「さらに一歩上のこんなことをしたいのです」 という言い方をするのが望ましいのです。 何も自分で努力せず、したがって自信が持てず、 暗い顔をして「何もできない自分」を前提にして 自己主張をしても通るはずがありません。 世の中そう甘くはないのです。(略) 聞く相手が気分が明るく朗らかになって 「よし、目の前にいるこの人のために、 いっしょう力を貸してやろう」と、 積極的に受け入れる気分になる、こんな自己主張の仕方を 「自己肯定的自己主張」と呼びます。 |
2016-10-14 |
家庭の習慣が違うのは当然です。 家庭によってしつけていることとしつけてないことがありますから。 だから、もし「この子しつけられてないなぁ」と感じることがあったら 「悪いけど、うちではこうしているからね、こうしてちょうだいね」 と言ってあげればいいんです。 「うちでは守ってくれる?」とよそのお母さんに言われれば、 子どもは「ハーイ」と言いますよ。 そして、それがその子にとっては新鮮な体験になるんです。 あまり走り回って悪さをするようであれば、 「ちょっと!いい加減にしなさいよ!これこれはいいけど、 こういうことはやらないでね」と、はっきりいっていいんです。 いえ、言わねばならないんです。 地域での子ども社会がなくなった今、それなりのしつけを きちんきちんと家庭内で受けている子もいれば、 しつけをされていない子も必然的に増えています。 だから、なるべくいろんな家に出入りして、 そこでもちゃんとしつけてもらうということが必要です。 そうしないとしつけなんてうまくいきません。 |
2016-10-13 |
子どもの自主性を育てるには? 子どもが発達するということは、 できなかったことができるようになること、 というふうに普通は考えますが、 それは「タテの発達」のイメージです。 タテの発達とは、より難しいものにチャレンジして、 それができるようになっていくことです。 ところが、子どもの発達というものは、 「タテの発達」だけで進むわけではありません。 たとえば、足腰が丈夫になって、だんだん走れるようになる一歳頃。 子どもは、階段をゆっくり一段一段下りて、最後に、 ぴょーんと両足をそろえて飛び降りることをしたりします。 上手にできた。 そうすると、一段飛びしたから次は二段飛び、とはいかないで、 同じ一段飛びを、何度も何度も繰り返してやるのです。 それもいろいろな階段でやる。 いちど一段飛びがうまくできるようになると、 その身についた能力を使って、自分の生活をできるだけたくさん 楽しもうとするわけです。 何かひとつできるようになったら、 それを使って生活の幅を広げようとするんですね。 この自分のできる能力を使って、 自分の世界を広げていくということ、 子どもはほっておいてもやりたがります。 これが「ヨコの発達」といわれるものです。 いろいろなところでチャレンジしてみて、 生活がヨコへどんどん広がっていき、やがて「できた」と思うと、 飽きてしまい「もういいの」となる。 飽きてしまうと、そのときはじめて、 もっと難しいものにチャレンジしたくなる。 自然にタテの発達が始まります。 ブランコに乗れるようになって、さんざんこぐことをしたら、 やっと今度は立ち乗りにチャレンジしていくわけですね。 大人がなにもいわなくても、いつのまにか ひとりで挑戦していくのです。 |
2016-10-12 |
目上の相手には依頼型自己主張で、 依頼するかたちで自分の主張をする。 相手に選択権を委ね、 「そのようにしてくだされば大変ありがたいけれども、 していただけなくても仕方がない。 なぜならば、すべての選択権はあなたにありますから」 と言い方です。 ここには、相手に対する尊敬の態度と自分のへりくだりの態度が、 はっきりと表れています。 目上の人、社会的地位が上の人に何かを依頼したり主張したり するときに、もっとも受け入れられやすい言い方がこれです。 「もし、~していただけると大変光栄に存じます」 と言われると、相手も「では、~してあげようか」 という気になるわけです。 この依頼型自己主張」を覚えて、うまく使ってみましょう。 |
2016-10-07 |
どうして意地悪なんかするのかな? 《オリヴァー・ジェームズ博士(心理学者)の答え》 きみは、自分はなんにも悪くないと思っているのに、 お父さんやお母さんからガミガミ小言を言われることあるかな? そんなときは頭にくるだけじゃなくて、 なんだか悲しくなっちゃうよね? そうやってムシャクシャすると、 こんどはきみが別の子に、ちょっと意地悪したくなっちゃうんだ。 たぶん弟や妹にむかってね。 大好きなおもちゃをわざと隠したり、 「やーい、数も数えられない、バーカ」なんてからかったりする。 弟や妹がどれだけ怒るかわかっているのに。 さもなければ学校の子が相手だ。 どんなことをすればいやがるか、きみはちゃんと知っているからね。 魚が大嫌いな子に、今日の給食は魚だよって言ってみたり、 悪口を言ってみたり… 人に意地悪するのは、そういうわけなんだ。 だれかから、なにかをされて、むっとしたり落ち込んだりする そうすると、そのやりきれない気持ちを晴らしたくなる。 そこで、だれかを怒らせたり悲しませたりしようとする。 まるでほかの人をゴミ箱に使うようなものさ。 心の中にたまったゴミみたいな気持ちを、 相手の中にすてようとするんだよ。 そして少しのあいだだけはほっとするんだ。 「ああ、よかった、ゴミがなくなって」 って思うから。 |
2016-10-04 |
夫婦、恋人、親子、親友であろうとも、 他人であることに変わりはない。 そして他人である限り、どれほど相性がいいようでも、 自分と違うということ、違って当たり前であり、 違わなければむしろおかしいということに気づくべきであろう。 それはことばを換えて言うなら、 相性というものへの絶対的信仰を捨て、 相手との間に存在する「距離」を認め、尊重し、 それに耐えてゆく孤独さをかみしめることと言ってもよい。(略) 長い間一緒に生活してゆく上には、 思いがけないむずかしいことが生じてくるものだ。 要は、相性という暗示にかけられて、この人となら 努力しなくても必ずうまくゆくという迷信をもたないことであり、 反対に、この人とは相性が悪いから絶対ダメと頭から決めてかかって、 相手と合わせてゆく努力を怠ってはいけないということである。 |
2016-10-03 |
ずっと野球ばかりやってきた反動だったのか、 高一の夏の大会が終わったあと遊びに走っちゃって。 当時はヤンチャの盛りだったし(笑) で、少しばかり度が過ぎて学校から一ヶ月謹慎をくらった。 当然、野球部の活動も禁止されて、 どうにでもなれという気分になった。 あのとき監督から 「終わったことはいいから、これからは必死でやれよ」 と言われてね。 「オマエはいったん周囲の期待を裏切った。 もう一度信頼を取り戻すのは容易じゃないんだから、 死ぬ気でがんばれよ」と。 それで目が覚めたというか。 もう中途半端なことはよそう、とことん野球に打ち込もうと思った。 それがあったからプロへの道を切り開くことができたんだと思う。 (横浜ベイスターズ 三浦大輔選手) |