■「今日のことば」カレンダー 2017年8月■
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2017-08-31 |
多くの商品に必ずあるといっていい説明書き。 ところが、ゼムクリップの箱には何も書いてありません。 使い方があまりにも単純で周知のことという前提からでしょう。 でも、単純のひと言では片付けられません。 最初のゼムクリップが世に出てから100年を越えますが、 この間に何百件もの特許がとられ、数限りない改良の試みが 今でも行われているのです。 忠平美幸さんが訳された 「ゼムクリップから技術の世界が見える」 に、この歴史と未来の可能性が示唆されています。 少し考えるだけでも、次のように、 数多くの改善の余地が挙げられましょう。 1.もっとはまりやすくできないか →今でているものは輪と輪を押し広げなければならない 2.外れにくくできないか →枚数の多い書類になると外れやすい 3.ひっかからないようにできないか →先端が書類に突き刺さって破れる 4.崩れないようにできないか →クリップで留めた側が高くなるので書類の山が傾く 私たちが日常取り組んでいる仕事も、手馴れているだけに、 これ以上工夫の余地はないと思い込んでいる傾向が なきにしもあらず。 改善の可能性を再点検をしてください。 |
2017-08-30 |
ドイツの厭世観の哲学者、ショーペンハウアーは、 「ヤマアラシのジレンマ」 ということを言っている。 寒い冬の日、2匹のヤマアラシがお互いの体温でもって からだをあたためあおうとした。 しかし彼らの身を守るトゲが邪魔になって 抱き合うことができなかった。 かといって、トゲをとってしまえば、彼らは、 すぐに肉食獣の餌食にされてしまうだろう。 まさにジレンマである。 人間にもトゲがある。 わたしたちは、「自我」という鋭いトゲを持っている。 だから、いくら願っても、わたしたちは他人と ぴったりひとつになれない。 わたしたちは、ある程度距離を置いて、 上手に他人とつきあっていくよりほかないのである。 |
2017-08-29 |
運動会などで綱引きをします。 力の強いチームが相手を引き寄せ、勝利しますが、 それと同じように考え方の強い方へ、 人は引っ張られていくといえます。 あるいは穴に落ちたときに、 上から誰かが綱を下ろして引っ張り上げてくれると、 その穴からたやすく外に出ることができます。 その綱を引いてくれる人が、ここでいう 「成功への考え方」ということになるのです。 成功への考え方が、成功者へと引っ張っていってくれる、 ということです。 ですから生きるうえでのしっかりした、 正しい考えを心に描いておくことが必要になります。(略) 今日一日のことでもそうでしょう。 朝起きて今日これから起こることを何も考えず、 時間に押し流されるように、ただ「ぼーっ」として過ごせば、 結構無駄な時間が多くなって、充実した一日は暮らせません。 朝起きたとき、たとえば 「今日はこれと、この仕事を必ずしよう。 できれば小さな親切をひとつしてみよう」 と考える。 そう思って始めた一日は、「ぼっー」と過ごした一日と 比べると、大きな違いがでてくると思います。 それは今日一日の具体的な思いや考えが 自分を導いていったのだ、と考えられるわけです。 |
2017-08-28 |
ダブルメジャーの人材について、わたしの恩師、 森政弘先生は「π型の人間」という言葉で説明されていました。 みんな専門を2つ持ちなさい。 ちょうど「π」の文字のように2本の柱を立てて、 それを梁でつなぎなさい。 ひとつの専門に懲り固まっていても、新しい発想は生まれない。 2つの専門を持って、それをつなごうとしたときにこそ、 新しい分野を切り開いていける、これから求められるのは、 そういうエンジニアなんだよ、と。(略) ひとつの道を極める、 という生き方は日本人の美徳にも合致して、 とてもカッコイイものに映るでしょう。 そして改善、改良型の仕事がやりたいだけなら、 ひとつの道を極めれば十分です。 しかし、自ら新しいジャンルを創造するような仕事が したいのだったら、少なくても2つの専門を持ちましょう。 そして困ったときには頭の中に「π」の字を思い浮かべて、 異なる2つをどうつなげるか考えましょう。 画期的なアイデアとは、そういうところから生まれてきます。 |
2017-08-25 |
魚岸さんの息子さんが、学校を卒業して 北陸の旅館に就職することが決まったという。 修行のため5年間は自宅に帰らない、と断言していたため、 寂しくて仕方なかったそうだ。 出発の前日、何かしてあげようということで、 旦那さんと2人で、息子の背中にオイルを塗って励ましながら、 丁寧にマッサージをしてあげたという。 1年後、息子さんに招待されて勤めている旅館に 旦那さんと泊まりに行って息子さんにようやく会うことができた。 そこで息子さんが言ったことである。 仕事は辛くて寂しくて、毎日布団で泣いていた。 でも出発する前日にお父さんとお母さんにマッサージしてもらった 温かい感覚を思い出すことで、頑張ってこれたんだ。 触れるパワーは絶大である。 たった1回でも、背中は優しく触れられた感触を覚えていたのだ。 息子さんは背中の温もりをしっかり思い出すことで、 あたかも両親が自分のそばにいて励ましてくれているように 感じることができ、それによって 大きく成長したのではないだろうか。 |
2017-08-24 |
毎日使うモノこそ、道具として高い価値があるのです。 ですから、使用頻度の高いモノを購入するときは、 使い勝手や質、デザインなどに徹底的にこだわること。 毎日使うモノに愛着がわけば、 生活が楽しく、豊かになります。 多少値段がはってもいいのです。 めったに使わないモノにお金をかけるよりも、 よほど正しいお金の使い方だと思いませんか? 私なら、毎日使う筆記用具は、 書き心地のよい万年筆を選ぶでしょう。 毎日使うマグカップはお気に入りのブランドの好きな デザインのものを購入して、大切に使います。 そのかわり、めったに使わない不必要なモノなど、 いっさいほしくありません。 |
2017-08-23 |
安さにつられて、損をする。 いらないモノは、安くても高い。 「価格が安い」というのは、 私たち消費者にとって大きなメリットです。 必要なモノが安く買えたり、値引きされていたりすのは、 とてもうれしいことです。 モノを増やす人は、この「安さ」に非常に弱いのです。 安い価格でモノを購入することを「得」なことだと考え、 「2000円引きで買ったから、2000円得をした」 と考えてしまうのです。 これがエスカレートすると、自分の生活にまったく必要ない、 関係のないモノまで「安いから」という理由で 購入してしまうようになります。 たとえばアウトドアなどまったくやらないのに、 キャンプ用品を買い込んだり、料理などまったくしないのに、 鍋セットを買い込んだり… 「安く買えた」ということだけに満足し、 使いみちのないモノがどんどん増えていくのです。 |
2017-08-22 |
私たちは、「快」を求めて「不快」を避けたがるのですが、 あいにく「快」という脳内の状態は 「不快」から解放されたときに一時的にのみ生じるだけで、 そのいっときが終わると心は再び「不快」へと戻ってゆくのです。 つまり心の故郷は、「不快」=「苦」だということであり、 その故郷から逃げ出したがって、必死に「快」を 求めもがいているのが私たちの姿なのであります。(略) わざわざ苦労して「快」を得ても (脳内でドーパミンが分泌されても) その「快」の生化学的な効果はすぐに消えてしまい、 あたかも水面の波が生まれてすぐに消えるように、 元の木阿弥となるのが定め… かくして、いかなる「快」も、アテにならず、 不確かで、よりどころにはなってくれない。 このアテにならず、よりどころのないということこそが 実は仏道の核心たる「無常」の本質です。 「無常」の反対は「常」。 心が常に変わらず「快」の状態でいてほしいとばかりに、 不変の、永続する「快」を求めている私たちの脳は、 「無常」を嫌がり「常」を追い求めもがいているのです。 |
2017-08-21 |
この世の中には、本当はどうでもいいはずのことが、 満ちあふれています。 言い争いになったときに、ついつい言い張ってこだわった 自分の意見、後で振り返ると、あんなつまらないことで、 人間関係を壊してしまったと、後悔することかもしれません。 「私のポリシーだから」と 生活の型に意固地にこだわってみたり、 何らかの食事法にこだわってみたり、 服装のスタイルにこだわってみたり。 そのどれをとってみても、「これじゃなきゃだめ」と 今は思っているだけで、やがて好みや考え方が変わったあとに なってみれば、 「なんであんなのが好きだったんだろう?」 と疑問に思う程度のものに、過ぎません。 その程度の、しょせんはやがて変化していくものに 執着することによって、何が起こるのか… 自らのこだわりに合う人や物に触れると「快」を感じ、 こだわりに合わない人や物に触れると「不快」を 感じるように、この心が歪んでゆくのです。 |
2017-08-10 |
「笑われるのは恥辱」という考えが支配する社会では、 子どもの頃から「笑われる人間になるな」と教育される。 これまでの日本では、 「笑われるな」と追い立て追い立てられして、 人々は頑張り、頑張らされたのである。 「笑われること」への免疫はつかなかった。 笑われることを恥と考える考え方は 変えていかなければならないと思う。 笑われてすぐに腹を立てることもやめた方がよい。 笑われたらいったんその笑いを受けとめる必要がある。 なるほどと思えばいっしょに笑えばよいし、 言い回しが面白ければ「上手いことを言う」と 感心してもよい。 反撃できる言葉が用意できれば、反撃してもよい。 笑い笑われ、ともに笑い合えれば一番よい。 |
2017-08-09 |
ふだんの大人の目線で見ているとわからないことでも、 子どもの目線まで下りるとわかることがあります。 たとえば、幼稚園に遅刻しそうなのに、 子どもが玄関に座ったまま動かないとき。 ママからすると、ただダラダラ、グズグズしているだけに 見えるかもしれませんね。 「早くして!」って叱りたくなるシチュエーションです。 でも、すっとしゃがんで子どもと一緒の目線になってみると、 実は玄関の床にアリが迷い込んでいて、食べ物を運んでいるのが おもしろくてじーっと観察していただけかもしれません。 子どもにとっては、大きな発見ですよね。 そんなとき、ママが、 「あら、アリさん見つけたの。すごいわね。じゃあ、 アリさんたちを外に出してあげようか?」 なんて言えば、 「うん、行く!」 ってさっさと靴を履いて外に出ていきますよ。 子どもが玄関に座り込んでいる理由を知ろうともしないで、 「グズグズしないで、早くして!」 と言って通り過ぎてしまったら、そのひと言で、 子どもの好奇心も自主性も失われてしまうかもしれません。 |
2017-08-08 |
事実だけでなく、意味と解釈も伝えよう。 説明のうまさには、レベルがあります。 さまざまな評価の視点がありますが、「情報の付加価値」 という視点でランク付けをするとしたら、 次のようになるでしょうか。 レベル1.説明が不明瞭 レベル2.説明が明瞭 レベル3.説明が明瞭で、意味が明瞭 レベル4.説明が明瞭で、意味と解釈が明瞭 具体的には、次のような表現の差があります。 レベル1.最近の株価はいい感じです。 レベル2.最近の株価は上昇傾向が続いています。 レベル3.最近の株価は上昇傾向が続いています。 市場が経済を楽観視しているということでしょう。 レベル4.最近の株価は上昇傾向が続いています。 市場が経済を楽観視しているということでしょう。 これまでの経緯を考えると、我々の商品への ニーズも高まってくるかもしれませんね。 |
2017-08-07 |
優しくありなさい。 あなたの 出会う人々は皆、 困難な闘いに 挑んでいるのだから。 (プラトン/哲学者) 誰かから受けたストレスを別の人にぶつけても、 自分のストレスをなくすことなどできない。 それなのに、そうせざるを得ないほど、 人は心の余裕を失い、不安に満ちている。 ストレスのバトンを渡す代わりに、 優しさをリレーしよう。 あなたがその気になれば、 いつだってあなたは最初のひとりになれる。 |
2017-08-04 |
「先生、どうも長い間お世話になりました。 私は、もう死んでいくような気がします。 母には会えないと思います」 彼女はしばらく目をつむっていましたが、やがて再び目を開け 「先生、母には心配をかけ続けで、申し訳なく思っています。 先生からよろく伝えてください」 と言って、私に向かって合掌しました。 脈がふれなくなりました。 臨終のときが迫ったのです。 私は彼女の耳元に口を寄せて大きな声で言いました。 「しっかりしなさい。死ぬなんてことはない。 もうすぐお母さんがみえるから」 彼女は茶褐色の胆汁を吐き2,3回大きく息をして絶命しました。 私は、死亡診断書を書きながら、「医者の使命とは何か」 と繰り返し自問していました。 患者が死を感じて言葉を残そうとするときには、なぜ 「安心して成仏しなさい」と言えなかったのか。 「お母さんにはあなたの気持ちをちゃんと伝えてあげますよ」 となぜ言えなかったのか。 あたふたと最後の効力のない治療を施そうとするより、 なぜもっと彼女の手を握っていてあげなかったのか… そのときの疑問が、半世紀を経て独立型のホスピスや 聖路加病院に緩和ケア病棟を作ることに結びついたのです。 |
2017-08-03 |
幸福とは、 本質的に「棚から牡丹餅(ぼたもち)」である。 なんだかおかしいように思えるが、 実はこれが大事なことである。 わたしたちは幸福なとき、 自分は努力したからこのように幸福になったのだ、 自分は善人だから幸福なのだ、 と思ってしまう。 それはいけない。 そんなふうに考えると、 不幸な人に対して冷たい目で見るようになる。 あの人は努力しないから不幸なのだ、 悪い人だから不幸なのだと見る。 それがよくないのである。 そしてまた、いつか自分が不幸になったとき、 自分自身のせいで不幸になったと見るから、落ち込んでしまう。 幸福は本質的に僥倖(ぎょうこう)であり、 偶然のものなんだ。 そう考えて、現在の幸福に感謝し、いつかやってくる不幸に、 こころの準備をしておく、そのような見方がいいと思う。 |
2017-08-02 |
他人に迷惑をかけまいとしている人は、 たしかに立派な人である。 非難する余地はない。 けれども、その人は、他人から受ける迷惑を なかなか許せないのではなかろうか。 自分は一生懸命、迷惑をかけないようにしているのに、 おまえはけしからん…といった気になる。 他人に迷惑をかけまい、かけまいと努力していると、 ついつい他人から迷惑をかけられたくないといった気持ちになる。 それが困った点である。 仏教が言っているのは、 人間は迷惑をかけずには生きられない存在である、 ということだ。 一人が大学に合格すれば、確実に一人はその大学に入れない。 誰かが部長になると、他人はなれない。 満員電車に一人が乗れば、その人は他の乗客を窮屈にさせている。 われわれは存在しているだけで、 他人に迷惑をかけているのだ。 だから、わたしたちは、 他人から受ける迷惑を耐え忍べ、 と仏教は教えているのである。 -耐辱(にんにく)-と呼ぶ。 仏教は、「他人に迷惑をかけるな」ではなく、 「他人からの迷惑を耐え忍べ」と教えている。 |
2017-08-01 |
評価は相手への攻撃のようなものですから、 相手の怒りを誘発し、反撃を食らうことになります。 「あなたって本当に仕事人間なのね」と言われた人は、 「その口のきき方はなんだ」と、 相手に評価の仕返しをするかもしれません。 あるいは、 「君は案外だらしないんだね」と言われた人は、 「あなたと違って暇ではありませんからね」 などと反撃するかもしれません。 そんな反撃を受ければ、さらに怒りが誘発されます。 評価は、怒りの連鎖を引き起こしていくのです。 これは殴り合いのケンカみたいなものです。 相手に伝えるべきは 「どうしてほしいか」であり、 「自分がどういう評価を下しているか」 ではないのです。 |