■2017年08月22日の「今日のことば」■
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「今日のことば」
私たちは、「快」を求めて「不快」を避けたがるのですが、 あいにく「快」という脳内の状態は 「不快」から解放されたときに一時的にのみ生じるだけで、 そのいっときが終わると心は再び「不快」へと戻ってゆくのです。 つまり心の故郷は、「不快」=「苦」だということであり、 その故郷から逃げ出したがって、必死に「快」を 求めもがいているのが私たちの姿なのであります。(略) わざわざ苦労して「快」を得ても (脳内でドーパミンが分泌されても) その「快」の生化学的な効果はすぐに消えてしまい、 あたかも水面の波が生まれてすぐに消えるように、 元の木阿弥となるのが定め… かくして、いかなる「快」も、アテにならず、 不確かで、よりどころにはなってくれない。 このアテにならず、よりどころのないということこそが 実は仏道の核心たる「無常」の本質です。 「無常」の反対は「常」。 心が常に変わらず「快」の状態でいてほしいとばかりに、 不変の、永続する「快」を求めている私たちの脳は、 「無常」を嫌がり「常」を追い求めもがいているのです。
まゆの感想
「快」を消し去らずに固定したいという思いを「常想」といい、
この「常想」に、人は振り回されがちなのだそうです。 「快」状態は、長くは続かず、アテにはならず、 頼りにならず、よりどころにならない、のに、 それを絶対のものだと追い求め続けてしまって。 ですから、小池さんは、 ●「不快」を避けようとして、「快」だけを求める心 ●「快」が、常だと思う心 そういう心をおしげもなく手放すことが大切だと言っています。 そして、実生活で、自分の心における 「快」「不快」の変化をじっくりと観察することを通じて、 「ああ、こういう快は、結局アテにならないし、 執着するほどの価値はないのだぁ」 という平穏に暮らす智慧が生まれてくるというのです。 「快」を喜ぶと、そこに執着が生まれ、束縛されがちなので、 「快」を喜ぶ変わりに、「これは無常っ」と念じ、 「快」をクールダウンさせることが大切だそうです。 凡人にはなかなかむずかしいことですが(苦笑) 心の故郷は、「不快」=「苦」で、 「不快」=「苦」があっても、 「ああ、人はこれが故郷で普通なんだな」 と思えて、自分だけではないと楽になれそうな気がしました。 みなさまは、どう感じられましたでしょうか? |
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