■2019年04月11日の「今日のことば」■
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「今日のことば」
シカは、貧しさのため小学校に行ったことはありません。 しかし、息子に一目会いたくて、囲炉裏の灰に指で字を書く 練習をしながら、この手紙を書いたのです。 おまイの。しせ(出世)には。 みなたまけ(驚き)ました。 わたくしもよろんでをりまする。 はるになるト。みなほかいド(北海道)に。 いて(行って)しまいます。 わたしも。こころぼそくありまする。 ドカ(どうか)はやく。きてくだされ。 はやくきてくたされ。はなくてきくたされ。 はやくきてくたされ。はなくてきくたされ。 いしよの(一生の)たのみて。ありまする。 にし(西)さむいては。おかみ(拝み)。 ひかし(東)さむいておかみ。しております。 きた(北)さむいてわおかみおります。 みなみ(南)たむいてわおかんておりまする。 ついたち(一日)にわしをたち(塩断ち)をしております。 なにおわすれても。これわすれません。 はやくきてくたされ。 いつくるトおせて(教えて)くたされ。 このへんちち(返事を)まちてをりまする。 ねてもねむられません。 (1912年、母シカが英世に宛てた手紙の抜粋 手紙原文は、野口記念館収蔵。 手紙内の注釈は、財団法人野口英世記念会が付したもの)
まゆの感想
先日、2024年にお札が新しい顔になることが発表されました。
現在1000円札は、細菌学者の野口英世さんですが、 次回は、北里柴三郎さんになるそうです。 実は、この二人は師弟同士だそうで、野口さんを育てた一人が 北里さんだったということです。 そんな関係もありで、今日は野口さんのお話です。 野口さんは、一歳半のときに、炉に転げ落ち左手に火傷をおい、 5本の指がすべてくっついてしまうという障害をおってしまいます。 そして、16歳のときにその手の手術をします。 その手術で、医学の素晴らしさを知った野口さんは、 小学校卒業後に、猛勉強をし20歳で医師免許を取得しますが、 手の障害のために医者にはならず、研究者を目指し、 伝染病研究所の北里さんのところに弟子入りします。 その後、ペスト菌などを発見するなど功績をあげ、 ニューヨークのロックフェラー研究所に迎えられ、 黄熱病や梅毒の研究をし、世界的に活躍していきます。 さて、野口さんを育てるために、 とても苦労した人物がおりました。 お母様のシカさんです。 父親は大酒飲みで、家はとても貧乏だったそうです。 シカさんは、障害を負わせた息子を、 「どんなことがあっても、この子を一生やしなっていく」と決め、 百姓にはなれないので、学問で身をたてさせようとします。 その学費を稼ぐために、昼は畑仕事をし、夜は、 二人の子どもを寝かしつけると、近くの川でエビを採り、 翌朝それを売りに行ったり、重い荷物を背負い、 20キロの山道を運ぶ仕事もしたそうです。 そのおかげで、野口さんは学問を身につけることができたのです。 上記の手紙は、会津に住んでいるシカさんが、 渡米して12年の野口さん宛てた手紙の一部です。 字も書けないシカさんが、一生懸命に字を覚えて書いたのです。 野口さんは、このたどたどしい手紙と年老いた母親の写真に 心を動かされ、忙しい研究の合間をぬって、 15年後に一時帰国しました。 そして、せめてもの親孝行にと 東京や関西などを一緒に旅行しました。 立派な医者になった野口さんを見て、シカさんは、 「立派なお前の姿を見られたし、竜宮城に行った浦島太郎のようで 大変幸せだよ。心残すことはねえ~」と大変喜んだそうです。 「世のため、人のためにつくしなさい」と言っていた シカさんは、66歳でスペインかぜで亡くなりましたが、 ニューヨークに戻っていた野口さんは、たいそう悲しんだとか。 その後、野口さんは、南米やアフリカに渡り、 黄熱病の研究中に自身も罹患し、1928年(昭和3年) 英領ゴールド・コースト(現在のガーナ共和国)のアクラで 51歳で亡くなります。 シカさんとの再会以降は、帰国はしなかったということです。 放蕩者としても知られている野口さんですが、 心の支えとなるシカさんのようなお母様がいたから、 後生に名を残し、お札の顔になったのでしょうね。 そして、シカさんは、 息子に本当に本当に会いたかったのでしょうね~ それをとても感じさせられる手紙でした。 |
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