■2018年03月28日の「今日のことば」■
前日のことばを見る 次のことばを見る
「今日のことば」
世間では、愛をすばらしいものと考えているが、 仏教では愛を否定している。 なぜなら、愛は自己中心的であり、愛する対象を自分の思うがままに 支配したいという感情を伴っているからである。 仏教では、愛を「渇愛(かつあい)」と呼ぶ。(略) それはちょうど、海を漂流する者が、あまりの渇きに一口、 海の水を飲んだ状態に似ている。 海水は渇きを癒すどころか、ますます渇きを激しくする。 わたしたちの「愛」もそれと同じであって、わたしたちは、 愛すれば愛するほど対象にのめりこんでしまい、 どうすればよいかわからなくなる。 だから、仏教では、「愛してはならぬ」と教えている。 わたしたちは、愛すれば愛するほど、 相手も自分をも傷つけてしまう。 それを仏教は恐れているのだ。 けれども、わたしたちは愛してしまう。 それは当然である。 それはそれでいい。 でも、わたしたちは、自分の都合で愛するのは、 「渇愛」であることを知っておきたい。
まゆの感想
「渇愛」の語源は、インドのサンスクリット語で、
「トリシュナー」で、「渇き」を意味する語だそうです。 つまり、仏教では、「愛」というものを喉が、 カラカラに渇いた状態と見ている、ということです。 そうだったのか… 仏教では愛を否定しているのか… と思ったしだいです。 でも、これは「ただの愛」のことです。 実は、仏教では、「ほんとうの愛」はすすめているのです。 では、仏教のいうところの「ほんとうの愛」とは、 「相手の身になって考えてあげることのできるものであり、 相手の自由を尊重するものだ。たとえば、 親が自分の希望をわが子に押しつけるのは「渇愛」であって、 わが子の自由を尊重しつつ、わが子の将来を心配するのが、 「慈愛」である」 ということで「慈愛」です。 凡人であるわたしたちは、なかなか「慈愛」まで たどり着けませんが、人を愛するとき、 「相手の自由」を奪うような愛し方は「渇愛」で、 「ほんとうの愛」とは違うものだと覚えておこうと思いました。 たぶん、現状の愛(らしきものの)の前では、 すぐに忘れて、自己中心的になると思いますが…(苦笑) |
|